男の優しさ、女神の怒り
Written by: Adem Çalhanoğlu
Edited by: Thuth Htet San
Translated by: 中山帆々子
始めに、私は思う、恥ずかしいほど単純な何か、それはとても優しく、無防備なため、絶え間ない怒りとセルフブランディングが渦巻く世界で何とか生き残っているもの。私は愛されたかった。これは欲求ではない。助けを求める叫びでもない。それよりも静かなものだー長く続く隠された囁き、政治騒動、アイデンティティ、そして、人間であることの疲労。そしてその囁き、ベースノートへの憧れ、私が「To Walk Beside a Demon」を書いた理由。

この話は神聖な、激怒してる女と冴えない男がその道を交える話である。この話は、フェミニズムを促進するものや、中途半端な復讐ファンタジーの物語ではない。これは「girlboss(自立して夢を追いかける女性のフィクション)」ではない。二人の主人公である、Zeynep(以下ゼイネプ)とAnsuhka(以下アヌシュカ)にはマーベルキャラクターのような力は与えられていない。彼女たちは自分たちのトラウマや、悲劇的な過去を皮肉混じりに語らない。彼女たちの強さは、生々しく、精神的な苦しみからうまれたものだ。超能力者ではない、彼女たちは症状なのである。分かりやすい幅、それらは多くの場合静かで、病理学で、嘲笑されるものである。彼女たちが存在する理由は、傷ついていることを無視され、官僚的に説明されつくし、デジタル商品可された女性がこの世に数多くいるからだ。
ゼイネプの起源は、この物語の核にある。彼女は「見つけられる」のではない。「呼び出される」のだ。円陣や呪文によってではなく、禁書として名高いグリモワール『シャムス・アル=マアーリフ』のページを通して。彼女は、Ayşe(以下アイシェ)の孤独と、この世界の不公平に対する言葉にならない怒りの、切実な重力によって現実へと引き寄せられる。ゼイネプは無煙の炎から生まれた精霊であり、古代の知識を宿す存在だが、彼女が顕現した理由は、徹頭徹尾人間的だ。彼女は、アイシェが言葉にせず祈っていた「姉妹」であり、必要としていながら決して求めなかった「守護者」だ。それは、現実を穿つほどの激しい愛が、呼びかけに答えた結果だった。
ゼイネプの力が古代の秘教的伝説に根ざしているのに対し、アヌシュカは後から加わった別の歴史から連なる存在だ。そこには、「力には異なる質感や歴史がある」という気づきがあった。私は、アブラハム的の神教や秘教的伝説とは異なる場所にルーツを持つ怒りを描きたかった。アヌシュカの力の源泉は、ヒンドゥー教の女神たちに宿る「神聖な女性の怒り」だ。彼女はドゥルガーやカーリーなどの創造神であり破壊神でもある女神たちの器となる。その力は、地政学的な不正義への応答であると同時に、カースト制度という古く、陰湿な暴力への反撃でもある。彼女は、今まで踏みにじられてきた者たちの怒りが燃え上がる姿の化身であり、世界を塵芥に粉砕する神々に選ばれた戦士を思い出させる存在だ。
彼女たちが物語の中で振るう暴力は、無差別ではない。それは正確で、鏡のようなものであり、彼女たちが形作られた体系的暴力を、そのまま映し返している。ガザの計算された破壊、カースト差別という日常的な毒、思春期以降ずっと女性に影のように付きまとう女性嫌悪。それは娯楽としての暴力ではない。牙を持った悲嘆だ。

それでも、私が何度も立ち返る人物はアイシェだ。ゼイネプとアヌシュカが嵐だとすれば、アイシェはその下に立ち尽くす人間だ。残虐さが常態化し、思いやりが幼稚に見えてしまう世界の中で、どう意味を見出すのかを必死に考えている。彼女の出発点は、私自身がよく知っている場所、孤独だ。それは独身であることや、家族から離れていることから来る孤独ではない。自分の痛みを語る言葉を、世界が与えてくれないときに訪れる孤独だ。彼女は戦士も女神も求めない。ただ、静かに「姉妹」を求める。そばにいてくれる誰か。自分を見てくれる誰かを。
その答えとして現れた力―ゼイネプ―を、彼女は理解できない。だが、それでも一つの「応答」ではある。彼女の旅は、力を得ることではなく、力が自分の責任として現れたとき、どう向き合うかを学ぶことだ。彼女を通して、私は自分自身に問いを投げかけている。正義の怒りを手にしたとき、人はそれをどう扱うべきなのか。残酷さなしに正義は成立するのか。倫理が最も必要とされる人々を裏切るとき、倫理的に力を持つとはどういうことなのか。
男性作家として、私は近年、特に同世代の男たちが「強さ」とどう向き合っているのかに、不安を覚えている。それはオンラインだけでなく、講義室やカフェ、WhatsAppのグループでも進行している危機だ。虚勢に偽装された自信の崩壊。アンドリュー・テイトのような人物が支持を集めるのは偶然ではない。それは症状だ。構造、確かさ、意味、そして愛への渇望が、脆い支配欲へと流し込まれている。
彼らは悪ではない。迷っているのだ。脆弱さを弱さに、愛を通貨に変える、不安定な男
性性を売りつけられている。

私が書くのは、彼らへの対抗ではない。彼らが存在する現実と並走しながら、それを理解しようとする試みだ。なぜなら、私自身も同じ引力を感じたことがあるからだ。足りないのではないかという不安。硬くなろうとする誘惑。ただ、私には一つの錨があった。妹だ。
彼女を通して、私は「尊重」とは何かを学んだ。害を与えないことではなく、耳を傾け、謙虚になり、注意を払うこと。だから私は、些細なことに気づく。掃除をしている女性に話しかけるとき、声色が変わる男。誰が遮り、誰が聞き、誰が女性のアイデアを横取りするのか。そうした瞬間こそが、すべてなのだ。どんなインスタの投稿よりも、その人の政治を雄弁に語る。
私が世界に望んでいるのは、道徳的に意味の通る世界だ。力が他者の上に立つことではなく、守ることを意味する世界。怒りが衝動ではなく、比例を保つ世界。恐れられることと尊敬されること、尊敬されることと愛されることが同義ではないと、男たちが理解する世界。
私は恐ろしく、力強く、そして愛に満ちた女性たちを書く。それは、彼女たちの明晰さが可能だと信じたいからだ。そして、彼女たちに形を与えることで、私は自分自身を、別の男性性へと書き直しているのかもしれない。
――愛されたい。そして、その価値のある人間でありたい。
それがすべての下にある真実だ。声明でも、断罪でもない。ただ、まだ間に合うかもしれないという、静かでしつこい希望。寄り添いと守護に根ざした、別の強さへの希望だ。

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